全日本カレーパン振興会 カレーパン通信

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歴史 HISTORY

歴史

カレーパンの歴史

カレーパン誕生

日本で生まれたカレーパンはどこで誕生したのか?カレーパンの開発に関しては幾つかの説がありますので、ご紹介いたします。

第1説 カレーパン発祥店、有力なのは「名花堂(現カトレア洋菓子店)」説

カレーパンは1927(昭和2)年、東京都深川区常磐町(現在の江東区あたり)にあった「名花堂」の2代目店主・中田豊治(なかだとよはる)さんによって生み出されました。当時は「洋食パン」と呼ばれ、“洋食といえばカレー”という認識があるほど、カレーは多くの人に親しまれていました(いつから「カレーパン」と呼ばれるようになったかは不明)。

「名花堂」は、明治10年に創業し、地元では名の通ったパン屋でした。しかし大正12年に関東大震災が起こります。そこで商売の復興を兼ねて、その頃人気を博していた洋食のカツレツとカレーの要素を取り入れた新しいパンを作ろうとしました。それがカレーパンです。これは実用新案としての登録も認められ、昭和2年の1月頃に申請し、7月に承認されています(ということは、昭和1年には、すでにカレーパンは完成していたと思われます)。

なぜ、カレーパンが油で揚げられているのか。それは、カレーは水分が多くて焼くのが難しかったからです。ちなみに、当時パンを揚げる調理方法はハイカラでした。値段は1個8銭ほどで、今なら200円前後。高級だったカレーを手軽に食べられることから大ヒットしたそうです。そのほかにも、パン生地が40gに対して具が70gと、カレーの分量を多かったこともヒットの要因に挙げられます。なぜなら、当時お店があった近辺は、工場地帯でブルーカラーの人たちが多く働いていたそうで、腹持ちのいい食事が求められたそうです。だから、食べ応えのあるカレーパンが重宝されたのではないでしょうか。

現在、「名花堂」は「カトレア洋菓子店」に店名を変え、さらに東京・森下に移転して、営業を続けています。昔のレシピ通りに作られるカレーパンのフィリングは豚挽き肉と玉ねぎ、にんじんで、今でも1日1000個以上売れる人気商品だそうです。

第2説 「デンマークブロート」説も

カレーパンの発祥店として、東京・練馬にある「デンマークブロート」説もあります。2000年4月号の『別冊サライ』では、カレーパン発祥の店を「デンマークブロート」と紹介しています。

〝 では、この驚嘆すべき食品をつくりだした日本人は誰であろうか?先に登場願ったデンマークブロートの井戸社長の父君、錠市さんがその人である。いきさつを記そう。井戸錠市さんは岐阜県美濃加茂市の出身で、現在九十二歳。関東大震災後、一旗あげようと東京に出てきた。ちょうどその頃、西新宿の成子坂で兄が総菜屋を始めていた。その店の一角を借り、錠市さんはパンを焼いて売るようになった。(中略)パンの新しい食べ方を工夫するうち、兄の総菜屋にあったカレーと一緒にしてはどうかと考えた。昭和七年のことである。〟

この記事によると、井戸錠市さんは、最初はカレーサンドイッチや、あんぱんのようなカレーパンを製作するも、鳴かず飛ばずで、売れなかったそうです。そんな試行錯誤を繰り返しているとき、お兄さんの経営する総菜屋で売っていたトンカツもヒントに(または中村屋で販売していたピロシキをヒントに)、衣をつけて油で揚げるカレーパンを生み出したとのこと。最初に作られたカレーパンは、トンカツに似せた形状だったため、薄く伸ばされていて草履のようだったそうです。

第3説 ピロシキ説

ロシアから伝わってきたピロシキの具材にカレーを入れたとする説。ピロシキは様々な具材を入れたパン生地を挙げたもので、ロシアでは日本のおにぎりのような身近の食べ物。日本でこのピロシキをヒントにカレーの具材を入れカレーパンともいわれている。

カレーパン草創期

新宿中村屋とカリーパン
カレーの歴史を語るうえで欠かせないのが、新宿中村屋。カレーパンの歴史を語るうえでも欠かせません。

「新宿中村屋」の創業者である相馬愛蔵さんは、明治34年(1901年)に、夫婦で長野から東京に移り商売を始めようとしていました。新聞広告で店舗を探していたところ、東京・本郷にある「中村屋」というパン屋が居抜きで売却を申し出ていたそうで、「これからはパン食の時代になる」と考えた相馬さんは、居抜き物件の店名もそのままにして、「中村屋」というパン屋を始めます。

そして1904年に、クリームパンやクリームワッフルなどの新商品を出すと、売り上げが伸び、新宿に支店を出すことになりました。当時の新宿は、江戸時代からの宿場町だったこともあって、新宿でも繁盛したそうです。

相馬さんは文化人とも交流があり、この頃から、彫刻家など多くの芸術家が中村屋に集まるようになりました。そんななか、大正4年。政治活動をしていた頭山満さんから、日本に亡命しているインド人の独立運動家ラス・ビバリ・ボーズを匿ってほしいと依頼されます。それを承諾した相馬さんは、ボーズを離れに住まわせ面倒をみることになり、その後娘の敏子さんと結婚。ボーズは中村屋の役員にまでなりました。実は相馬さんは、ボーズ以外にも、ロシアの盲目の詩人を住まわるなど、様々な人を手助けしていました(これにより、ピロシキやボルシチの販売につながる)。

大正12年(1923年)に、関東大震災が起こりましたが、新宿は被災が免れたため、次第に新宿が賑わうようになっていきます。そして相馬さんは、昭和2年に新宿で喫茶店の開業を試みます。喫茶店での看板メニューを考えていたところ、ボーズから本場インドのカレーを提案されます。そして生まれたのが、あの「純インド式カリーライス」です。当時のカレーは10銭程度にくらべ、80銭もする高級なカレーでしたが、カレーは人々の憧れの料理であったため、大人気となりました。

そして戦争が始まると、次第に食材不足が生じます。十分にカレーを提供できなくなってしまったために、昭和15年(※昭和8年にカレーパンが発売されたとする説もある)にカレーパンの販売を始めるに至ります。値段は、2個入り30銭だったそうです。

中村屋は、小さいパン屋の模倣した説
昭和59年に発刊された、俳優・石坂浩二さんの著書『天晴れカレーパン』では、カレーパンのルーツを調べてもどこかわからないといった旨の記述があります。記者の力を使って調べたところ、昭和15年(書籍には昭和8年と記載)に発売した「新宿中村屋」まで遡ることはできたのですが、しかしこの新宿中村屋は、小さいパン屋の真似をしたとのことで、どのパン屋の真似をしたかは不明でした。つまり、昭和59年当時は、「名花堂」または「デンマークブロート」が、カレーパンの発祥店だと知られていなかったようです。

こういった一連の記事から考察すると、昭和2年の段階で、現在の江東区あたりにあった「名花堂」がカレーパンを考案し販売していたが、新宿エリアにはまだカレーパンが広まっていなかった。その後、昭和7年に西新宿あたりにあった「デンマークブロート」がカレーパンを考案し、それを見つけた新宿中村屋が模倣。そして、徐々にカレーパンが広範囲に知られるようになったのではないでしょうか。

カレーパン普及期

カレーパンが全国に普及したのは30年ほど前か?
たびたび紹介する、昭和59年に発刊された、俳優・石坂浩二さんの著書『天晴れカレーパン』には気になる記述があります。それは、石坂さんがラジオでカレーパンについて語ったところ、名古屋に住むリスナーから「私はカレーパンなるものを見たことも聞いたこともありません」というハガキをもらったというもの。それからも「今は売っていないそうです」「北海道では、ピロシキはあってもカレーパンはありません」というハガキが各地から届いたそうです。他のリスナーからのお便りを読むと、カレーパンに憧れを抱いているのもわかります。

さらに、本の中には<カレーパンをもっと知りたい 全国のパン屋さんに聞きました>というコーナーがあります。全国各地のパン屋にアンケートを取り、いつ頃カレーパンを販売したのか、価格などを紹介する企画です。北海道の代表として、日糧製パン株式会社が紹介されているのですが、なんと「北海道ではカレーパンがあまり売れません」と書いてあります。

カレーパンの発祥店については諸説ありますが、昭和初期に東京で生まれた食べ物であることには間違いありません。しかし今のように全国にカレーパンが普及したのは、30年も経ってはいないと思われます。一体何がきっかけで、今のようにカレーパンは市民権を得たのでしょうか?


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